はなわちえ(三味線)

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国際交流基金により実施される「お城から音楽を」ソロコンサートシリーズ、第6回目は三味線をご紹介します。今回は、シリーズ第2回目で北原民江先生が演奏した三味線とは異なる、津軽三味線スタイルで、はなわちえにより演奏されます 

 

津軽三味線

津軽三味線は、現在の津軽半島に伝わる日本の三味線による音楽ジャンルである。青森県をはじめ、日本全国で広く演奏されており、三味線の重要なレパートリーの一つとされている。 

江戸時代、津軽半島は弘前藩の支配下にあり、津軽家により統治されていた。古くから日本の大都市から遠く離れた土地であり、貧困地でもあった津軽は、津軽半島と、作家太宰治の生誕地としても知られている。太宰は地元の楽器であり、日本のその他の弦楽器とは異なる津軽三味線について、旅行記を書いている。 

 

 

戊辰戦争1868年)によって会津藩が敗れた後、多くの侍達は津軽半島の捕虜収容所に送られた 

三味線は中国を起源とし16世紀に沖縄に伝わったことは歴史により明らかにされているが、津軽三味線の製作者についてはよく知られていない。製作について書かれた記録も残されておらず、日本政府に正式に承認されていない。 

現時点で分かっていることは、津軽三味線は現青森県西部にある津軽と呼ばれる小さな半島で生まれたということだけである。また、研究者も様式の出所を入手可能な証拠に基づいている。津軽三味線の様式は坊様(ボサマ)と呼ばれる盲目の旅芸人によって編み出されたという意見もある 

津軽三味線研究者であった大條和雄氏は、複数の三味線奏者とその親族への取材に基づき、演奏様式は仁太坊と呼ばれる坊様から生まれたと述べる。調査によると、仁太坊は1877年、異なったスタイルで演奏するため三味線を手に入れ改良し、撥はしゃもじの形のように丸みを持たせた。そのほか、三味線を縦に持って弾くスタイルを確立した。また、撥のみを使用することとは対照的に、三味線の駒の周りの部分を叩くこと、弦を打楽器のように打つことも取り入れた。しかし、別の津軽三味線の研究者は、記録が不在であることから、大條和雄により示された報告は明確なものではない可能性があると論じている。 

 

 

仁太坊は、津軽三味線の独特のスタイルの開発に貢献した喜之坊や長作坊など何人もの盲目の弟子を持った。仁太坊の最後の弟子、白川軍八郎は民俗芸能公演団の一員として、津軽以外でも演奏を行った。軍八郎はまた東京の演奏会場などでも披露した。その結果、津軽三味線は1920年代に人気が高まったが、勃発した日中戦争開始とともに衰えた 

1955年から1965年にかけて、多くの津軽三味線奏者が東京など日本の大都市に移った。この移住は日本における伝統芸能の浸透に向けた大きな動きの一環でもあった。軍八郎が、1959年、東京国立劇場で日本の大衆音楽である演歌の巨匠、三橋美智也とともに演奏した頃に津軽三味線は人気の絶頂期を迎えた。その大規模な流行の結果、津軽三味線を学ぶ若者が現れてきた。 

坊様でもある高橋竹山は評価が高い津軽三味線の奏者として、1964年に日本全国を巡って演奏を行った。20042月には西沢昭雄監督による、津軽三味線の始祖の歴史を物語る映画「仁太坊」が公開された。 

 

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津軽三味線は、他のスタイルで使用されている奏法の三味線より太い棹と弦を持つ「太棹」と呼ばれる大きめのもので演奏される。撥で三味線本体を叩くことによって、リズムが取られ、津軽三味線は打楽器としての特徴も持つ。 

その演奏スタイルは、多くのフレーズと異なるスタイルで構成される。曲弾きという即興演奏法が主な特徴でもある。奏者は左人差し指、中指薬指を使い撥で弦や撥皮を強く、早く叩き演奏する。音階は基本的にペンタトニックである。 

また、近年使用されている津軽三味線特有の技法として、撥皮を叩かずに撥の裏を使いビブラートをかけるトレモロがある。 

津軽三味線の曲の中には、他の多くの邦楽とは異なり、楽曲に4分の3拍子もあしかし3拍子に西洋音楽のようなアクセントはなく、例えばワルツのようなアクセントはない 

津軽三味線のレパートリーは幅広く、常に増え続けている。高橋竹山や山田千里などの著名な奏者とのインタビューや、過去の巨匠により行われたレコーディングによると、そのレパートリーには2つの形態がある。それはボーカルラインに三味線と太鼓の伴奏で構成される歌の形態、または、三味線のソロ作品である。 

 

 

最近では、津軽三味線のスタイルやモチーフを、ジャズやロックなどのメジャー音楽と融合させる試みが、若い世代の津軽三味線奏者達の間で行われている。 

伝統音楽を源流とした新ジャンルが生まれている 

 

はなわちえ(津軽三味線 

 

 

茨城県日立市出身9歳の時、佐々木光儀師の元で津軽三味線を習い始め2000年に津軽三味線全国大会のA級女性部門へ初挑戦し17歳で最年少チャンピオンとなる。 

東京芸術大学音楽学部邦楽科に在学中の2004年、日本コロンビアよりリリースされたファーストアルバム アルバム「月のうさぎ」でメジャーデビュー。以後、都内のライブハウスを中心にバンド編成による演奏活動をスタート 

トリオ「結」のほか沖増菜摘とのデュオ、「はまなす」を結成。その活動の反響は大きく、皇居内桃華楽堂での御前でも演奏した。また、海外ではカンヌ国際広告祭をはじめ、アメリカ(デンバー、ニューヨーク)、マレーシア、ブルネイ、中国(香港、上海)、ベルギー、フランス、イタリア、チリ、アルゼンチン、グルジア、ドイツ、上海、ブラジ(サンパウロ他7都市)、ノルウェー、マケドニア、コソボ、ルクセンブルク、アゼルイジャン、ペルー等、海外でも国際交流基金や在日本大使館主催のコンサート、企業招聘にて演奏を行う 

 

 

日本伝統音楽、そして津軽三味線の演奏家として世界で幅広く認められており、テレビCMにも出演2014年に2ndアルバム「CoLoRful」を、2017年には3rd アルバムHello, World.をキングレコードからリリース 

 

音楽 

津軽よされ節
この曲は欲望を忘れるための音楽と考えられる。たとえば、空腹であっても津軽三味線を弾いていれば、欲望さえ忘れ、現在における状況を気にかけずに弾き続けられる。 

十三の砂山 
港町、十三はある晩 洪水によって崩壊され、残るのは砂山のみ。この歌は、洪水で被害を受けた人々が食を手にできるよう砂山が米の山へと変わるという望みが込められている。  

津軽じょんがら節
津軽三味線における最も有名な民謡であり、ジャズのような即興バージョンとして紹介。ちえのオリジナル編曲として、「さくらさくら」のフレーズが込められている。 

秋田荷方節
秋田県の民謡で、韻律的で継続的なリズムを持つ。 

 エクスペリエンス
女優としても出演したソニーXperiaのテレビCM用に向けて作曲された、ちえのオリジナル曲。伝統と革新の融合がコンセプトである。 

 

 

お城から音楽を」プロジェクトでのはなわちえの演奏をご覧ください 

 

 

「お城から音楽を」